絹の生産が盛んな藤岡、生絹の取引量が上州・武州で最大になる
中居屋重兵衛、上州中居村(群馬県嬬恋村三原)に生まれる
田島弥平、島村(伊勢崎市境島村)に生まれる
原善三郎、武州渡瀬村(埼玉県神川町渡瀬)に生まれる
高山長五郎、上州高山村(群馬県藤岡市高山)の養蚕農家に生まれる
画像:高山長五郎
速水堅曹、川越に生まれる
新井領一郎、上州水沼村(群馬県桐生市黒保根町)の星野家に生まれる
のちに桐生の生糸問屋・新井家の養子となる
日米修好通商条約により横浜が開港する
日本の生糸を欧米各国の貿易商が争って買入、一番の輸出品となる
中居屋重兵衛、横浜開港に合わせ生糸貿易の先駆者、第一人者となる
前橋の本町通りに生糸の品質を検査して、粗製濫造による粗悪品を排除する 「生糸改所」が設けられる
原善三郎、横浜で生糸売込商「亀屋」を開業し、財を成す
田島弥平「清涼育」を確立し蚕室を建築、近代養蚕農家の原型となる
在方荷主・下村善太郎、郷里の前橋で糸繭商として海外と取引を開始
原富太郎、生まれる
鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が始まる
江戸を「東京」と改称し、年号を「明治」とする
2月、明治政府が「殖産興業」の礎を築くため、外貨獲得の手段となる製糸業に着目、洋式の器械製糸工場設立を決定
イタリア特命全権公使ラ・トゥールやイギリス公使館書記官アダムズらが養蚕地を視察、器械製糸場の建設を明治政府に働きかける
伊藤博文・渋沢栄一らは自国資本で器械製糸場を造ることにする
フランス人ポール・ブリュナを招いて長野・群馬・埼玉各地を視察。その結果、群馬県富岡に近代的製糸工場を建設することを決定する
尾高惇忠、役所による農業用水の取水口変更に関して抗議し、政府に陳情。政府高官に認められ、新政府に仕えることになる
画像:渋沢栄一
藩命により横浜に生糸売込問屋を開業していた速水堅曹、スイス人ミューラーから器械製糸技術を学び、日本初の器械製糸工場「藩営前橋製糸所」を設立
官営・富岡製糸場が開設される
7月、富岡製糸場初代場長・尾高惇忠の娘、勇(ゆう)ら、工女として率先して入場。工女は一等工女から三等工女および等外工女の4階級制
10月4日、富岡製糸場、操業を開始
田島弥平、『養蚕新論』を発表
田島弥平、渋沢栄一の勧めで有志とともに島村勧業会社設立。優良蚕種の製造・販売を行なう
鉄道、汐留-横浜間が開通
画像:尾高勇
4月、工女総数556名に達す。この年から明治12年までの間に「富岡風」といわれる器械製糸は全国26の製糸場に導入される
ウィーン万博開幕 富岡の生糸が高い評価を受け、 「トミオカ・シルク」の名がヨーロッパ各国に響き渡る。
渋沢栄一は養蚕書の編纂を命じられ、のちに「蚕桑集成」に結実する
星野長太郎、洋式器械製糸場「水沼製糸場」を創業し生糸の大量出荷をなす
富岡製糸場、工女階級が改定され、等外上等工女および一等工女から七等工女までの8等級制となる
原善三郎らによって横浜に第二国立銀行が開設される
翌年・翌々年に高崎と前橋に支店が設けられる
現在の山形県鶴岡市に田島弥平宅の構造を模した松ヶ岡開墾場の蚕室が築造される
下村善太郎、海外に蚕種を輸出し、生糸の品質保持に貢献
星野長太郎、弱冠20歳の弟・新井領一郎をニューヨークに派遣、日本初の生糸直輸出を実現させる
木村九蔵、養蚕改良競進組を結成
蚕種の産地・島村(伊勢崎市境島村)にキリスト教が広がりはじめる
安中教会が設立される
安中教会の信徒によって富岡製糸場近くに「甘楽教会」がつくられる
富岡製糸場では、この年までに工女のための学校が設置される
前橋「生糸改所」が洋風建築を取り入れた白亜の建物となる
田島弥平、『続養蚕新論』を発表、養蚕新論とともに 「実証的な研究書」と高く評価され、多くの蚕種家や養蚕家に影響を与える
田島弥平、島村勧業会社社員2名とともに蚕種(蚕卵紙)を携え洋行。イタリアへの直輸入を行なう
速水堅曹、富岡製糸場第3代所長に就任
メルボルン万博でトミオカ・シルク、絶大な賛辞を受ける
3月、速水堅曹は製糸場所長を辞任、「横浜同伸会社」を立ち上げ、生糸直輸入に力を注ぐ
日本初の私鉄「日本鉄道」の第1期線として高崎線が、上野-熊谷間で仮営業
翌年全通、高崎線開設の目的は、鉄道によって横浜まで生糸・絹織物を運ぶこと
日本鉄道・本庄駅の開業が追い風となり、本庄は日本随一の繭の取引高を誇る市場となる
木村九蔵、養蚕改良競進社と組織を改める
高山長五郎、高山社を設立
高崎線の延長で高崎-前橋間が開通し端緒が開かれた両毛線も生糸を運ぶための路線
甘楽教会、安中教会信徒により南後箇村(富岡市南後箇)に設立される
画像:高山社
アメリカが生糸の輸出先の50%を占めるようになる
速水堅曹、富岡製糸場第5代所長となり、民営化されるまでの8年間所長を務める
明治政府は日比谷周辺の官庁街を西洋風のれんが造りとする計画をたて、渋沢栄一にれんが工場の設立を要請。渋沢は深谷の上敷免村を工場建設地とした
現在の山形県酒田市に松ヶ岡製糸所創業、富岡製糸場の一等工女を招き、田島弥平のもとへ実習生を派遣した
上敷免村に日本煉瓦製造株式会社が開業、事務所とホフマン輪窯が建設され、操業を開始
日本煉瓦製のれんがは東京駅、日本銀行、赤坂離宮などに使用される
甘楽教会、富岡製糸場正門近くに会堂が移る
高山社の実習施設・母屋兼蚕室が建てられる
シカゴ万博で碓氷社製生糸が栄えある賞を受賞、世界中に日本のシルクブームが巻き起こる
富岡製糸場、三井高保が落札し、民営化される
明治35年までの間に開業当初の繰糸器に変わって新型繰糸器が導入され、アメリカ輸出用の生糸が生産された
木村九蔵、競進社模範蚕室を建てる
上野鉄道(のちの上信電鉄)設立、2年後に高崎-下仁田間が全通
上野電鉄「上州富岡駅」開業
深谷、旧渋沢邸「中の家」建築される
本庄に生糸や繭の保管に使われた「旧本庄商業銀行レンガ倉庫」建てられる
画像:旧本庄商業銀行レンガ倉庫
田島弥平旧宅近くに「日本基督教団 島村教会」建設
画像:島村教会
町田菊治郎、高山社蚕業学校を設立
画像:町田菊治郎
富岡製糸場を原合名会社が買収、三渓園を築いた原富太郎が経営を受け継ぐ。原合名会社時代には、明治末に御法川直三郎によって発明された「御法川式多条繰糸機」が取り入れられ、生糸の品質と生産性が向上した
富岡製糸場をモデルに造られた三重県四日市の旧亀山製糸室山工場が火事で焼失するも、この年再建、平成7年まで操業を続ける
庭屋静太郎が荒船風穴を建設、大正時代にかけて建設された蚕種の貯蔵施設
画像:荒船風穴
アメリカが生糸の輸出先の70%を占める
八王子から横浜まで横浜鉄道(横浜線)が開通
日本の生糸輸出量、世界一に。世界市場の80%を占めるに至る
米国絹業協会長らが来日し、群馬を訪れる
伊勢崎まで東武鉄道が開通
東武線境町駅前(現・伊勢崎市)に繭を保管する「境赤煉瓦倉庫」が建設される
この年と大正15年に建てられた2棟のれんが倉庫、下仁田倉庫は農家から買い取った繭の保管に使われ、繭は鉄道で輸送された
上野鉄道、全線電化
八高線全通、高崎から八王子まで生糸・絹織物を運ぶためにつくられる
富岡製糸場、片倉製糸が経営を引き継ぐ
新井領一郎、コネチカット州の自宅で死去(84歳)
死去に際しニューヨーク商品取引所は黙祷を捧げ、ニューヨークタイムズは「日米生糸貿易の創始者」と訃報を伝えた
渡良瀬村(現・神川町)にあった製糸場「原製糸場(のち原渡瀬製糸場)」が 絶縁体のマイカ(雲母)を製造する「日本マイカ」の工場施設になる
前橋に日本銀行前橋支店開設、前橋が金融の重要拠点であることの証左
甘楽教会、現在地に大谷石造りの礼拝堂が建設された
日本煉瓦のホフマン輪窯、この年まで使用される
富岡製糸場、過去最高の生産量(37万kgあまり)を達成。ピーク時には「ニッサンHR型自動繰糸機」が活躍した
富岡製糸場、その役割を終え、115年の歴史に幕を下ろす
片倉工業最後の製糸工場・熊谷工場がこの年まで稼働
競進社、児玉農学校、児玉農工高等学校を経て埼玉県立児玉白楊高等学校となる
片倉工業熊谷工場の繭倉庫を活用して「片倉シルク記念館」開設
片倉工業の製糸業120年あまりの歴史を保存継承する
日本煉瓦はこの年まで操業を続けた
群馬県立蚕糸学校、安中実業高校の流れを汲む安中総合学園高校、開校
本庄市秋平地区東小平の「高窓の里」と呼ばれる養蚕農家群が埼玉県景観賞を受賞
画像:高窓の里
渋沢栄一と尾高惇忠がとりもつ縁で深谷市・富岡市が友好都市提携を交わす
6月21日、ドーハで開かれていた第38回ユネスコ世界遺産委員会で「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化遺産に登録される
繰糸場、東繭倉庫、西繭倉庫の3棟が国宝指定
富岡製糸場の玄関口、上信電鉄「上州富岡駅」の大規模な改修整備
グッドデザイン賞と日本建築学会賞を受賞