天保11年2月13日(1840年3月16日)ー昭和6年(1931)11月11日
江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。
養蚕、藍玉づくりやその販売を行なう深谷の裕福な農家に生まれる。幕末から明治初年にかけて幕臣としてヨーロッパ視察に随行し、西洋事情の見聞を広める。1872年(明治5)、明治新政府の要人として伊藤博文とともに富岡製糸場設立を推進。蚕業に詳しかった渋沢は、建設にあたっては設置主任となり、中心的な役割を果たした。翌年、ウィーン万博で富岡の生糸が高い評価を受けると、養蚕書の編纂を命じられ、「蚕桑集成」をまとめ、広く日本の生糸を広めることに力を注いだ。初代工場長に抜擢された尾高惇忠は渋沢の従兄で、幼い頃の論語の師でもあった。その後も第一国立銀行や東京証券取引所など、およそ500社にものぼる多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」とも言われた。深谷の日本煉瓦製造会社設立にも携わり、また理化学研究所の創設者でもある。
明治28年に建築された旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は、屋根に「やぐら」を備え、奥の間には渋沢が帰郷のおりに滞在した部屋がいまも残る。古希を記念して世田谷に建てられ、深谷に移築復元された「誠之堂」や日本煉瓦製造株式会社の「旧煉瓦製造施設」などもゆかりの施設。
正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。