上武絹の道

深谷の三偉人
手をたずさえ、礎を築いた物語

富岡製糸場建設には深谷出身の人物が大きくかかわっていた。
奇しき縁でむすばれ、手をたずさえて礎を築いた人びと。
その物語から、新しい国をつくる夢と気概を読み取る。

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富岡製糸場設立に関わる

わが国初の大規模な官営製糸工場として生まれた富岡製糸場は、日本およびアジアの産業革命の出発点であり、明治以降の日本の近代化と国際化に中心的な役割を果たした。その遺構は「西欧近代技術の技術移転を象徴する建築」および「非西欧圏に現存する最古・最大の民族資本による工場」という世界的に類のない特質を持つ。

「上武絹の道」の象徴的存在ともいえる富岡製糸場。その設立には3人の深谷人が関わった。渋沢栄一、尾高惇忠、韮塚直次郎。渋沢は政府にあって、富岡製糸場の設置主任として設立を主導した。尾高は製糸場の建設に携わり、初代場長となった。韮塚は建築資材調達のまとめ役を担った。この3人は同郷というだけでなく、不思議な縁でむすばれている。

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尾高の塾で学んだ渋沢栄一

渋沢栄一は、明治新政府の要人として、伊藤博文とともに富岡製糸場設立を推進した。渋沢は、養蚕や藍染めの藍玉づくりなどを行う富裕な農家に生まれ、養蚕に詳しかった。また、幕末から明治初年にかけて幕臣としてヨーロッパ視察に随行し、西洋事情の見聞を広めた。
製糸場の建設にあたって、渋沢は尾高惇忠を責任者に推した。じつは渋沢と尾高はいとこ同士(尾高が10歳年上)で、渋沢は7歳の頃から、尾高が生家で開いていた私塾に通っていた。渋沢の精神的支柱ともいえる「論語」も尾高の塾で学んだ。

後年、渋沢は公利公益を重んじて「道徳経済合一説」を説き、約500社の企業の設立に関わった。多くの社会公共事業や国際親善にも尽力した。その旺盛な活動の根底には論語の精神「忠恕の心(まごころと思いやり)」があったといわれる。かつて「油屋(尾高の生家の屋号)」の小さな塾で、長兄のような尾高の前に座り、「論語」の素読をする栄一少年の姿が浮かぶ。

「至誠如神」を貫いた尾高惇忠

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尾高惇忠は名主を務める家に生まれた。幼い頃から学問に秀で、江戸時代後期に曾祖父が建てた生家で塾を開いた。
明治2年(1869)、役所による農業用水の取水口変更に関して抗議し、政府に陳情をして事件を解決した。このことが政府高官に認められ、新政府に仕えることになった。
富岡製糸場の設立には用地選定から携わり、建設にあたっては「木骨煉瓦造」という特異な構造を実現させるため、杉柱の確保にも腐心したほか、韮塚直次郎には煉瓦づくりを一任した。直次郎は尾高より7歳年長だが、尾高家で7歳まで過ごした経緯があった。なお、煉瓦の目地止めとして、同郷の左官職人、堀田鷲五郎・千代吉親子に漆喰の改良を依頼した。
製糸場の操業開始とともに尾高は初代場長になり、「至誠如神(至誠は神の如し)」を信条として経営に尽力した。製糸場の規律維持を図るとともに、工女の教育に心を砕き、技術だけでなく教養の向上に努めたという。

尾高家ゆかりの韮塚直次郎

韮塚直次郎は、尾高家で働いていた搾油工と住み込みの家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごした。のち、彦根藩士の娘を尾高家の見立て養女として妻にしている。尾高惇忠が関わった農業用水の取水口変更の騒動では、尾高とともに事態解決に奔走した。

富岡製糸場の建設責任者となった尾高は、建築資材調達のまとめ役を直次郎に任せた。直次郎は単身、富岡へ移住し、任務に当たった。建築資材のなかでも課題は、煉瓦だった。直次郎はフランス人技師から煉瓦の性質を聞き出し、良質の粘土を探し、地元の瓦職人を束ねて、煉瓦造りに取り組んだ。試行錯誤を経て、今も風雪に耐えて建物を支える煉瓦をつくり出した。製糸場が操業を始めると、賄方(食堂)を担当した。
直次郎はのち、富岡製糸場の事業成功に感謝し、甘楽町の笹森稲荷神社と深谷市の永明稲荷神社に製糸場を描いた大絵馬を奉納した。また後年、渋沢栄一が深谷における日本煉瓦製造会社の設立に携わったとき、直次郎は地元住民への説明に尽力している。

「工女第1号」尾高勇

富岡製糸場に関わる深谷人としてもう一人、尾高惇忠の長女、勇(ゆう)を挙げなければならない。勇は伝習工女の募集に応じ、率先して入場した。その背景には、ある噂が広まり、応募する子女が当初ほとんどいなかったという実情がある。噂とは(フランス人の飲むワインを生き血と錯覚して)「外国人に血を絞られる」というもので、単に流説というよりも、「攘夷」の時代から間もない当時の人びとにとって深刻な心象として受け止められていた。

尾高惇忠の伝記『藍香翁』にも次の下りがある。「御雇の異人共は実は魔法使いの悪鬼輩にして彼のお触れに応じて年若の工女を工場に入れむか、可愛やその工女等は忽ち彼等に生血を絞られて、その命を断(たた)るべしと言うにあり。為に工女の募集に応じる者一人もなしと言う」

工女第1号といわれる勇の行動は流言蜚語を払拭するためのものであった。勇の決断は同郷の子女を感化し、松村倉(くら)など5人の少女、さらに倉の祖母和志(わし)が共に入場している。

深谷を彩る「上武絹の道」遺産

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深谷には今も「上武絹の道」を語る上で欠かせない遺産が点在している。
渋沢栄一の旧邸「中の家(なかんち)」、「尾高惇忠生家」の他、渋沢が設立した日本煉瓦製造株式会社の製造施設も残っている。

明治19年(1886)明治政府は日比谷周辺の官庁街を西洋風の煉瓦造とする計画を立て、渋沢栄一に煉瓦工場の設立を要請した。渋沢は、瓦の産地・良質な粘土層・利根川による舟運などの立地条件から、深谷の上敷免(じょうしきめん)村を工場建設地とした。明治21年(1888)事務所とホフマン輪窯が建設され、操業開始。日本煉瓦製の煉瓦は東京駅・日本銀行・赤坂離宮などの建設に使用された。以降、平成18年(2006)まで工場は操業を続けた(ホフマン輪窯は昭和43年(1968)まで)。現在、旧事務所(史料館)と六号ホフマン輪窯が公開されている。

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