上武絹の道

富岡製糸場
世界遺産として、未来遺産として

「上武絹の道」の象徴的存在、富岡製糸場。
世界との交流によって生まれ、さらなる交流を促した。
いま、時空を超えた遺産として、その軌跡を輝かせる。

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近代国家日本の原点

私たちの国は明治維新を機に、近代国家への道を歩み出し、国際社会への仲間入りをしようとした。その入口をつくり、扉を開いたのが富岡製糸場だった。
器械製糸場としての規模の大きさは当時の世界を見渡しても類がなく、国内での近代的設備による工業化の先駆けをなし、近代工業国家日本の原点となった。その偉容は日本と世界とのつながりによって生まれた。

和と洋の技術の融合

富岡製糸場の構造物や設備には、和洋の技術の融合がみられる。繭倉庫などの建物は、木の骨組みと西洋のれんが積みを合わせた「木骨煉瓦造」という特異な構造で、れんがの目地にはセメントの代わりに漆喰が使われた。フランスから導入した繰糸器も、湿気の多い日本の気候に合わせ、再繰式(小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き直す方式)のものが輸入され、さらに日本人女性の体格に合わせて高さが調整されていた。
また、フランス輸入の蒸気機関(ブリュナ・エンジン)、構内の約180mにおよぶ下水道、造船技術を生かした約400トンの水を蓄えられる鉄水槽(明治7年(1874)製)など、西洋の技術導入による先進の設備が整えられていた。

世界最大級の製糸場

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富岡製糸場は器械製糸工場として当時世界最大級の規模を誇った。器械製糸工場の規模は、繭を煮て糸を繰り出す釜の数で表されるが、当時のヨーロッパの主要な生糸産出国フランスやイタリアなどで150釜ほど。これに対して富岡製糸場は300釜と、世界基準の2倍に達した。その300釜を擁する繰糸場は、全長140m余りという長大さであった。
明治国家が近代化を進めるなか、初期においては生糸しか主要な国際商品はなく、生糸輸出に頼るほか外貨獲得の方法がなかった。

富岡製糸場の製糸技術は、開場翌年の明治6年(1873)にウィーンの万国博覧会で入選するなど、国際的に認められるほどになった。富岡製糸場の評価は高まり、フランスやイタリアなどのシルク先進国で富岡の生糸が使われるようになった。細い生糸が日本の近代化を牽引した。富岡製糸場は、明治42年(1909)に日本の生糸輸出量が世界一となる礎を築いた。

絹文化を世界の人びとへ

良質で安価な生糸を世界市場へ供給することにより、絹文化を世界の幅広い階層に普及させる役割を富岡製糸場は果たした。当時の欧米でシルクといえば、一部の限られた階級の人しか着用できない贅沢品だった。その状況を技術革新などによって打破し、シルクを多くの人に行き渡らせることに富岡製糸場は貢献した。明治中期以降、生糸の主要輸出先はヨーロッパからアメリカに移り、絹文化は一層世界へと広がっていった。

1世紀余り製糸工場として

富岡製糸場は、明治5年(1872)に明治政府による官営の器械製糸工場として生まれた。その後、明治26年(1893)に三井家の経営となり、さらに、原合名会社、片倉製糸紡績へと経営が移った。その間、一貫して製糸工場として機能し続けた。技術革新や設備投資によって生産性は向上し、昭和49年(1974)には史上最高の生産量(37万キログラム余り)を達成した。昭和62年(1987)の操業停止まで、115年間にわたって日本の絹産業を牽引し続けた。現在、繰糸場に残る繰糸設備は、機械製糸の最も進化した形を示している。

富岡製糸場の奇跡

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富岡製糸場の奇跡は「140年以上前に造られた器械製糸の建造物群が、創業時の姿を良く残したまま、良好な状態で保存されている」こと。これは広く世界を見渡しても例がなく、富岡製糸場に匹敵する製糸工場は現存しないと言われる。富岡製糸場の存在は、「貸さない・売らない・壊さない」を貫いて保存に努めた片倉工業をはじめ、この巨大な遺構を後世に伝えようとした人たちの思いを伝えている。

富岡製糸場は開国を経て、日本を世界最大の生糸輸出国へ押し上げる原動力となり、世界の第一線で活躍を続けた。日本が辿る国際化への道を共に歩む運命を負い、日本と世界が関わり合う象徴であり続けた。1世紀余りの変転を秘め、未来遺産としての富岡製糸場の軌跡は続く。

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