「上武絹の道」――それは近代化と国際化へ続く道。
道をつくり、道につどい、道をゆきかう。
人びとのまなざしは、新しい日本へ向けられていた。
上州・武州の間には利根川が流れる。
日本最大の流域面積を持つこの大河は、国内屈指の「あばれ川」であり、氾濫のたびに流れを変え、田畑や人家の流失など、甚大な被害をもたらした。
一方、大河ゆえに舟運が発達し、各所に河岸(港)がつくられ、物資が行き来した。上流から運ばれて堆積した砂質土が桑の生育に適するという恩恵があり、河原に桑畑がつくられ、養蚕地帯が形成された。
「上武絹の道」は、利根川を挟んで向かい合い、利根川によって結ばれている。坂東太郎(利根川の異名)は、上州・武州を分断するものではなく、つなぐものだった。
「上武絹の道」の形成には、利根川が重要な役割を果たしたという地理的条件に加え、近世から近代に至る歴史の転換点に遭遇したという時代的背景がある。幕末から明治維新へ、約260年続いた江戸幕府が崩壊して新政府が生まれ、新しい国家への道を日本は歩み出した。時代が近代化と国際化を求めていた。「上武絹の道」はその機会をとらえた。もともと上州・武州の各地で生糸や絹織物が生産され、絹の市が立つなど、「絹の道」の下地はあった。
「上武絹の道」のまなざしは世界へ向けられた。外貨を得て近代国家のかたちをつくるため、横浜開港を契機として生糸輸出を伸ばすことが喫緊の課題となった。
江戸時代を通じて醸成された日本人の真面目さ・勤勉さが発揮された。世界に追いつこうと背伸びをした。明治政府がつくった富岡製糸場は、規模の巨大さで、西洋の水準を遥かに超えていた。その大きさに、国際社会の仲間入りをしようとする当時の人びとの思いが映し出されている。
「御一新(明治維新)」が成り、近代化への道を歩み始めたばかりの日本だったが、自分たちの手で新しい国をつくろうという気概が当時の人たちにあった。
横浜開港以来、日本の輸出生糸は品質の良さで評判を高めたが、粗製濫造の製品も出回った。そこで、日本在住のイタリア特命全権公使ラ・トゥールやイギリス公使館書記官アダムズらが、明治2年(1869)から翌年にかけて養蚕地の視察をし、器械製糸場の建設を明治政府に働きかけた。このとき、アダムズらは、外国資本の提供を明治政府に申し出たが、政府の伊藤博文らはこれを断り、自国資本で器械製糸場(富岡製糸場)をつくることにした。器械製糸の技術は外国から導入するも、産業の植民地化は退けた。自主独立の姿勢がなければ技術移転はなく、近代製糸の普及はないと考えたのである。
ちなみに、ラ・トゥールもアダムズも視察の際、田島弥平の蚕室を訪れている。「Yane(やね)という我々が立ち寄った家の主人――」とアダムズの報告書にある。YaneはYaheすなわち「弥平」を指すと考えられている。
上州・武州の人たちは互いに行き交い、相互的な競合および連携と協働とによって「絹の道」に関わり、日本の近代化と国際化に尽くした。
富岡製糸場の設立に尽力したのは深谷の人たち(別項「深谷の三偉人」)であったが、さらにその深谷人たちが、上州・武州の境界を超えて活動の範囲を広げ、上武の関係を強めた。たとえば、深谷出身で富岡製糸場の初代場長となった尾高惇忠が、本庄の諸井泉右衛門らに生繭の買い付けを依頼したことがきっかけで、本庄は繭市場として発展を遂げたといわれる。明治16年(1883)日本鉄道本庄駅の開業が追い風となり、本庄は日本随一の繭の取引高を誇る市場になる。製糸工場(最盛期で13社)ができ、規模の大きな養蚕農家も現れた。
なお、本庄の繭市場を仕切った諸井泉右衛門の孫の諸井恒平はわずか16歳で本庄生糸改所の頭取に推される。のち、親類の渋沢栄一が深谷に設立した日本煉瓦製造株式会社に勤め、専務取締役に就任。後年、秩父セメント株式会社を起こした。
養蚕の効率を上げ、品質の良い蚕種・繭を生産するために、「上武絹の道」の各地で競い合うように養蚕法が開発された。田島弥平の「清涼育」も、高山長五郎の「清温育」も、長五郎の実弟の木村九蔵の「一派温暖育」も、創意工夫と試行錯誤の中から生まれた。それらは全て実証的だった。それぞれ自分たちの開発した養蚕法に基づく蚕室や実習施設などをつくり、あるいは養蚕法を書物に著し、研究成果を独占するのではなく公開し、後進の育成に努めた。明治初期につくられた富岡製糸場も、当初の眼目は模範伝習工場で、器械製糸の技術を日本全国へ広める役割を果たした。
製糸技術が西洋から導入され、あるいは生糸を西洋へ輸出するなかで、新たな文化が「上武絹の道」にもたらされた。そのひとつがキリスト教で、蚕種の産地・島村(伊勢崎市境島村)の人たちは先駆的にキリスト教を取り入れ、故郷に根づかせた。新しいものを摂取する時代精神「進取の気象」がそこにあった。
島村にキリスト教が広がり始めたのは「島村教会」設立に先立つ明治10年(1877)といわれるが、その1年前に新島襄がアメリカから帰国し、明治11年(1878)に安中教会が設立された。安中教会の信徒によって富岡製糸場近くに「甘楽教会」がつくられた。
「上武絹の道」の示唆するものは多い。近代産業の道筋、技術立国の原点、そして新しい時代に向き合う人々の営み。
絹産業の枠組みの中だけでも、蚕種製造・養蚕・製糸・染色・織物などの専門分野がある。そこでは品質向上を求める技術革新が行われた。絹産業から生まれる生糸や絹織物は、さらに物流や商取引、輸出などの過程を経て世界市場へ送られ、外貨を稼ぎ、また「メイド・イン・ジャパン」の品質の良さが評価を受け、日本を近代国家へ押し上げる原動力となった。川上から川下にいたるまで、業際化や産業統合による「産業ルネサンス」が起こった。ものづくりだけでなく、人づくりも行われた。人材が発掘され、さまざまな知識や技術が持ち寄られた。「上武絹の道」には、軽工業・重工業・情報産業など、多様な広がりを見せる現代の産業のルーツがあり、知と技の源泉がある。
さらに「地域の再発見」という観点から、「上武絹の道」によって結ばれた群馬南部・埼玉北部というエリアそのものが、地元の人たちにとって誇り得る郷土遺産であること、この地域が富岡製糸場を核に形成された近代産業の揺籃の地であることに思いを致したい。