上武絹の道

夢を手繰る生糸の物語
過去から現代、そして未来へ

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日本を大国にのし上げた上州武州の生糸

ヨーロッパの遥か遠く、アジアの東の果てに位置する日本。海外との国交もない貧しくか弱い小さな国だった日本。19世紀の中ごろ、その存在はほとんど知られていなかった。しかし、開国を果たすと、たちまちにして日本という国の名が、さらに、ある一地域の名が囁かれ始めたのである。その地域で生産された生糸、つややかな光沢を放つ生糸が、日本を訪れた外国商人たちの取引の的となった。他の国が生産するよりも上質な生糸は、欧米諸国のお洒落な貴婦人たちを魅了し、心を捕らえたのであった。
吹けば飛ぶような小さな繭から手繰られた一本の生糸。その細くて弱々しい生糸が、アジアの片隅の小さな国を、豊かで強大な欧米列強と肩を並べる大国にまで押しやった。鎖国により堅く身を潜めていた日本は、まさにこの地方で生まれた生糸によって近代化の道を突き進むことが出来たのである。
その地域こそ、上州であり武州であった。

現在、日本は大国として、豊かで平和な国家を築いている。その源となったのは、まさにこの時代にこの地域で生きた人々のたゆまぬ努力があったからである。この地域での人々の活躍が無ければ、今の日本の発展はなかったであろう。それほど重要な上州武州の生糸。この地域には一本の生糸に託した明るく活気ある夢と希望があったのだ。21世紀の現代、改めてこの地に残る貴重な絹遺産と、この地に息づく人々の熱い思いに触れることは、意義ある貴重な体験となることだろう。

世界一の製糸場誕生!

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東京から新幹線で高崎まで一時間ほど、そこから上信電鉄に乗り換えて40分。富岡の静かな町を歩いていると、突如現れる赤煉瓦の巨大な建物。それが、富岡製糸場である。今でもモダンなこの製糸場で、世界中の人々を驚愕させた上質な生糸が生まれたのだ。

文明開化を迎えた当時の日本は、近代国家として国際社会へ踊り出るために、「富国強兵」「殖産興業」を打ち出していた。特に外貨獲得の政策として、絹の輸出に重点を置くこととなった。
が、これまでの手動による座繰り製法では大量輸出は望めない。そのために、大隈重信と伊藤博文により、洋式製糸場の建設を計画。明治2年(1869)フランス人ポール・ブリュナを招いて、長野・群馬・埼玉各地を視察。その結果、群馬県富岡に近代的製糸場を建設することを決定した。当地に製糸に必要な「繭と良質な水」、工場建設に必要な「広大な土地」、さらに、近隣に蒸気エンジンの燃料となる「石炭」が確保できたことが、その要因だった。
すでに江戸時代から、藤岡には日本中の呉服商が集まり、絹市が開かれるほど、この地域一帯は絹産業が盛んな土地だった。建設に当たっては、渋沢栄一が設置主任となり、中心的役割を果たした。驚くことに、当時大変珍しかった煉瓦も、近隣で韮塚直次郎が製造したものだった。
そして、明治5年(1872)官営・富岡製糸場が開設された。日本は、近代化を目指して、船出したのである。

生糸に掛けた夢、最新の技術開発

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世界一の規模を誇る富岡製糸場。繰糸場に一歩足を踏み入れると、そこは柱のない大空間が広がり、ガラス窓から差し込む自然光が眩しいほどだ。そこに、三百人取りの繰糸機械が並んでいる。ここで、ポール・ブリュナの指導のもと、製図工、生糸検査人、技術者、繰糸教師、医師らが横浜や本国フランスから呼ばれ、操業に携わった。
初代工場長に抜擢されたのは、尾高惇忠だった。彼は渋沢栄一の従兄であり、幼いころの栄一の論語の師でもあった。こうして製糸場で働く人々は、外国人の指導のもと、日を追うごとに技術を身につけ、上質な生糸を大量に生産できるようになっていったのである。

一方、製糸場の外でも、人々が質の良い生糸生産のために弛まぬ努力をしていた。この地域特有の「空っ風」で鍛え上げられた辛抱強い気質が、生糸生産に驚くべき改革を加えたのである。
良質な繭を作るためには、蚕の飼育法が重要だ。この養蚕法に力を注いだのが、田島弥平である。彼は「清涼育」を確立、文久3年(1863)に建てた蚕室は、近代養蚕農家の原型となった。
現在、伊勢崎市に田島弥平旧宅が残り、富岡製糸場と共に、世界遺産に登録された。
同時に世界遺産となった藤岡市の高山社跡は、高山長五郎が確立した養蚕教育機関として、日本国内はもとより海外からやって来た多くの若者を指導したところだ。彼はまた、通風と湿度・温度管理を調和させた「清温育」という蚕育方法を確立させた。
長五郎の弟の木村九蔵も、養蚕技術の改良とその教育に重要な役割を果たした。彼は「一派温暖育」を唱え、明治10年(1877)に養蚕改良競進組を結成。明治17年(1884)に養蚕改良競進社と組織を改め、明治27年(1894)競進社模範蚕室を建てた。ここからも養蚕技術を身につけた若者たちが、全国へと羽ばたいていった。ちなみにこの競進社は、その後幾度もの改称を重ねて、平成7年(1995)埼玉県立児玉白楊高等学校として現在に至っている。

さらに、蚕の卵である蚕種の貯蔵法にも、画期的な工夫がなされた。明治38年(1905)、庭屋静太郎が建設した荒船風穴にそれを見ることが出来る。ここでは、岩の隙間から吹きだす冷風を利用した貯蔵法で、当時年一回だった養蚕を、複数回可能にした。この風穴は国内最大規模を誇り、取引先は全国四十道府県に及び、遠く朝鮮半島にまで及んだ。ここも、世界遺産として登録された、貴重な遺産である。

そして、この地域の名物、日本遺産にも登録されている「嬶天下(かかあでんか)」に代表される、天下一の働き者と言われる女性たちの活躍も、忘れてはならない。彼女たちの働きは古くからこの地域の絹産業を支えて来た。製糸場創設後は工女として、また絹製品の織り手として大活躍する。
多くの女性たちが製糸場の労働に携わったことは、特筆すべき重要な事実であった。これまでは、女性は家を守ることが役割であり、外で働くことなど考えられないことであった。そのため、製糸場の創設時は工女のなり手が無かったことに頭を悩ませた。この急場を打開させたのは、初代工場長尾高惇忠だった。彼は自分の娘の勇を工女第一号として入場させた。これを機に、全国から女性たちが集まることになる。当初は地方の旧士族の子女が多く、その数は全国32都道府県にまで及んだ。しかも、労働条件も驚くほど良いものだった。労働時間は一日平均7時間45分、日曜日は休み、食費や医療費は国の負担であった。寄宿舎や診療所も構内に完備。政府も「伝習を終えた工女は出身地へ戻り、地元の製糸工場の指導者となること」を奨励していた。彼女たちにより、ここで学んだ最新の技術が全国に広がっていったのである。いち早く、女性が社会進出を成し遂げた驚くべき事実である。当時の工女たちの生き生きした姿は、「富岡日記」を読むことで、伺うことが出来る。

富岡製糸場を中心として、多くの人々が活躍したこの時代。さらに、周辺地域にも変化が訪れた。大量の絹を運搬するために、利根川の水運が発達。鉄道も大切なインフラであった。険しい山を切り開いて開通した碓氷(うすい)線、高崎線、両毛線、上野鉄道(上信電鉄)と次々に開通。特に高崎線は上州と横浜を結ぶ線として重要な役割を果たすことになる。近年、このルートは湘南新宿ラインとして利用されている。水運・鉄道の開発も、日本の絹産業に多大な影響を及ぼしたのである。

トミオカ・シルクが、世界を魅了!

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欧米諸国が、長い年月を重ねて大国になりえたその業績を、何の資源も力も無い木と紙の国日本は、驚くほど短期間でなし得てしまった。この驚異的な発展をなしたのは、政治家でも軍人でもなかった。それらの力の根底にあったのは、産業人や科学者、実業家と呼ばれる、一庶民たちであり、これまで世に出ることは禁じられていた女性たちであった。すなわち、維新において日本を近代国家へと導いたのは、江戸時代にひっそりと生きて来た、庶民だったのである。彼らが自由に才能を発揮することで、日本は欧米諸国の人々を驚嘆させる程の大国へと変貌していったのである。その原動力の源に、富岡製糸場を中心とした、全国各所に点在する、上質な生糸産業があったのだ。

富岡に官営製糸場が置かれ、近隣の人々の弛まぬ努力と熱意によって発展を遂げた生糸産業は、大きく世界へ羽ばたくこととなる。
その先駆けとなったのは、明治6年(1873)に開催された、ウィーン万博である。ここで富岡の生糸が高い評価を受け、一夜にして「トミオカ・シルク」の名が、ヨーロッパ各国に響き渡ったのである。この時、渋沢栄一は養蚕書の編纂を命じられ、広く日本の生糸を広めることに力を注いだ。その書が「蚕桑集成(さんそうしゅうせい)」である。その後、明治13年(1880)には、メルボルン万博でも絶大なる賛辞を受け、さらに明治26年(1893)のシカゴ万博では、碓氷社製生糸が栄えある賞を受賞。世界中に日本のシルクブームが巻き起こったのである。かつて、シルクロードを渡ったマルコ・ポーロが日本を「黄金の国・ジパング」と称したように、この時、日本は「シルクの国・ジャパン」として知られるようになったのである。

日本における生糸の海外取引の歴史は、既に、安政6年(1859)にまで遡る。この年日米友好通商条約により横浜が開港されると、イギリスのジャーデン・マセソン商会やデント商会、アメリカのウォール商会などが貿易を開始。またたく間に日本の生糸は欧米各国の貿易商たちが争って買収する一番の輸出品になった。それとともに、横浜には全国から志ある人々が押し掛けた。生糸貿易の開祖と言われる中居屋重兵衛を始め、上州武州の有力な売り込み問屋が次々と出店。茂木惣兵衛や、原善三郎なども、大きく生糸の商いに貢献した。
また、地元で生糸を買い集め、横浜に売り込む在方荷主と呼ばれる商人も出現。仲買人として莫大な利益を上げることとなった。この在方荷主の一人下村善太郎は、文久3年(1863)に郷里前橋で糸繭商として海外との取引を開始。当時の横浜の糸相場をいち早く把握して大富豪へと登りつめ、前橋の発展に寄与した。しかも明治9年(1876)には海外に蚕種を輸出し、生糸の品質保持に力を注いだ。彼らの活躍により日本の生糸は海外へと輸出されて行ったのである。

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それだけではなかった。彼らの中には外国商人の手を介さず、直接海外で生糸の販売を目指す者もあらわれた。
その一人が富岡製糸場の所長を務める速水堅曹である。彼は明治13年(1880)3月、横浜同伸会社を立ち上げ、生糸の直輸入のために大いに力を注いだのだ。
さらに、星野・新井兄弟の働きは、生糸の直輸入の業績を大きく飛躍させた。明治7年に洋式器械製糸場の水沼製糸所を創業し、生糸の大量出荷をなした群馬県出身の星野長太郎は、明治9年(1876)に弱冠20歳の弟、新井領一郎をアメリカのニューヨークに派遣、日本初の生糸直輸出を実現させた。
明治初年当時、日本人は未開の国から来た人種とみなされ、公平には相手にされなかった時代である。そんな時代に、何の伝もない日本の青年が事業をするには、どれだけの苦労があったことだろうか。しかし、彼らは強い信念を抱いて、初心を貫徹したのだった。

この二人の強い思いに賛同し、絶大なる後押しをした男がいた。その男こそ明治政府の参与、楫取素彦であった。幕末の志士、吉田松陰の義弟でもあった彼は、初の群馬県令として前橋に赴任、富岡製糸場の存続・発展に大いに寄与した。ちなみに、新井領一郎は元駐日大使ライシャワー夫人・ハルの祖父でもある。
この時、新井がアメリカに輸出した生糸は、女性のリボンやハンカチーフなどの小物製品に使用された。トミオカ・シルクは、アメリカの女性の心を虜にしたのである。特にトミオカ・シルクのストッキングは、その後の女性のフアッションを大きく変えるほど多大な影響を与えることとなった。

これらの人々の活躍により、生糸の輸出量は格段に増え、莫大な利益を日本にもたらすこととなったのだ。
また、輸出国もヨーロッパ諸国からアメリカへと大きく移行する。明治当初生糸の輸出先はイギリスが50パーセントを占めていたが、明治18年(1885)には、アメリカが58パーセントに、さらに明治40年(1907)には70パーセントにまで達した。そして、明治40年(1909)、日本の生糸輸出量は世界市場の80パーセントを占めるに至ったのである。

忘れてはならないのは、こうした成果の陰には、高品質の生糸と共に、器械の技術革新があったことである。「御法川(みのりかわ)式立繰多条繰糸機」もその一つ。この機械で生まれた製品は「ミノリカワ・シルク」として絶賛された。

戦後、この技術革新は自動繰糸機となり、日本を代表する自動車産業等、現代日本企業の出現に大きく関わることとなったのである。
さらに忘れてはならない人物がいる。現在、横浜本牧に広がる三渓園。この優美な日本庭園を造園した原三渓こと、原富太郎である。岐阜生まれの彼は、横浜で一・二を争う生糸売込商であった原善三郎が築いた「亀屋」を継いで、富岡製糸場の経営にも参加。その巧みな手腕により、近代的事業経営を展開。莫大な資産を築いたが、富を独占することなく、当時の若き芸術家たちを支援するなど、大いに社会に貢献したのであった。
このように富岡で生産された生糸は、生産量、輸出量ともに、世界一へと躍り出たのであった。ついに、日本はシルクの国ジャパンとして、世界の一流の大国の仲間入りを果たしたのである。

絹遺産が伝える、未来へのメッセージ

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わずか数十年の間に、世界中に広まったトミオカ・シルク。その輸出によって得た莫大な外貨により、日本は近代化をなし列強と肩を並べる大国へと上り詰めた。その源となった富岡製糸場は、明治26年(1893)に三井高保が落札し、民営化される。次いで、明治35年(1902年)には、原合名会社が買収。あの三渓園を築いた、原富太郎が経営を受け継いだ。彼は、アメリカを始め、ロシア、ヨーロッパに代理店を開設、より積極的に生糸輸出を展開した。その後、昭和14年(1939)に信州諏訪で製糸業を展開していた片倉製糸が経営を引き継いだ。
戦後、ナイロンなどの普及により、シルク製品に陰りが見えて来たが、それでもなお、富岡製糸場では、高品質な生糸の生産を続けていた。そして、昭和62年(1987)、富岡製糸場はその役割を終えた。
まさに、近代日本を支えた絹産業の歴史に幕を閉じたのである。

有りがたいことに富岡製糸場は、閉鎖後もそのままの姿で保存された。それによって、現在も、当時の姿を垣間見ることが出来るのだ。そして、再び富岡製糸場に、世界中から脚光が浴びせられた。
平成26年(2014)6月21日、中東の国カタールの首都ドーハで開かれた第38回ユネスコ世界遺産委員会。「富岡製糸場と絹産業遺産群」が審議され、日本を含む21の委員会のうち18ヶ国が登録支持の発言をした。特に反対する意見は出なかった。そして、同日午前10時55分、日本時間の午後4時55分に、世界文化遺産の登録が正式に決定された。かつて東の果ての小さな国でしかなかった日本の一地方の人々のひた向きな努力と、近代日本に与えた業績が認められ称賛されたのである。まさに、会場を埋め尽くした人々を、感動の渦に巻き込んだ歴史的瞬間であった。

歴史に埋もれていた一つの大きな偉業。近代日本の歴史を眺めると、ややもするとその業績は、重工業に偏りがちであるが、その根底に生糸があったことを忘れるわけにはいかない。
古くから育まれてきた養蚕技術。ひたすら高品質な生糸を生産することに力を注いできた先人たち。長い鎖国から目覚めた日本には、米と絹のほかに主要な産業はなかった。とてつもなく強大な欧米諸国に比べれば、当時の日本などは、吹けば飛んでしまうほどの、貧しくか弱い国でしかなかった。
しかし、当時の人々は諸外国の人々を前に、決して屈することはなかった。日本人ならではの礼節を持って、したたかに根気強く努力を続け、唯一世界に誇れる絹という弱くか細い生糸をひたすら手繰り続けたのである。この気の遠くなるような地道な作業に、富岡を始め上州武州の先人たちは挑み続けた。そこで得た富は、日本の近代化に役立つ資金として使われたのだ。

そんな先人たちの偉業が、この地には数多く点在している。既に世界遺産群として承認された富岡製糸場、高山社跡、田島弥平旧宅、荒船風穴を始めとするぐんま絹遺産、さらに近隣でも数多くの貴重な遺産に触れることが出来るのである。
文明開化を成し遂げ、70年前の壊滅的な敗戦から立ち上がり、驚異的な復興を成した日本人。その尊い精神の源が、上州武州に生きた先人の中に存在していた。その思いは、今も脈々とこの地に暮らす人々の血となり肉となっているのだ。

今、再び、一本の細く弱々しい生糸の遺産を手繰ってこの土地を歩いて見ると、現代に生きる我々が忘れていた日本人の素晴らしい力を、肌で感じることが出来るだろう。
先人から現代の大人たちへ、さらに、子供たちへ伝える尊いメッセージが、必ず見つかることだろう。

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