連携と協働により近代化と国際化を率いた「上武絹の道」。
その道をたどることで浮かび上がる発見がある。
絹の道は過去のものではなく、次の時代へと続いている。
「上武絹の道」に沿って、群馬県西南部から埼玉県北部へと絹遺産をたどってみよう。
下仁田町には世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産「荒船風穴」がある。荒船風穴は、明治38年(1905)から大正時代にかけて建設された蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設で、大きな貯蔵庫が3基あり、110万枚の蚕卵紙の貯蔵能力を持ち、同種の風穴の中で世界最大規模を誇った。下仁田町の西端、標高840mの山間部に位置し、年平均摂氏2度前後の冷風が吹き出す。冷風を利用するために、山の斜面に石積みを築き、そこに土蔵造りの建屋を設け、蚕種を貯蔵した。建屋は1950年代に失われ、現存しない。「下仁田町ふるさとセンター」に「荒船風穴再現模型」があり、荒船風穴の全体像が分かる。荒船風穴は見学可能(12月1日~3月31日閉鎖)。解説員が常駐し、解説を行っている。
荒船風穴最寄りの駅は上信電鉄終着駅の下仁田駅(荒船風穴までタクシー約30分)で、駅に隣接して、「下仁田倉庫」(旧上野(こうずけ)鉄道関連施設)がある。下仁田倉庫は大正10年(1921)と15年(1926)に建てられた2棟の煉瓦倉庫。農家から買い取った繭の保管に使われ、繭は上野鉄道で輸送された。
下仁田町となりの安中市には、今も製糸工場として稼働する「碓氷製糸農業協同組合」、「めがね橋」などの「碓氷峠鉄道施設」、また、組合製糸の拠点で、世界を動かすほどの生糸を輸出した「旧碓氷社本社事務所」などがある。
富岡市には「上武絹の道」の象徴「富岡製糸場」がある。
明治5年(1872)に生まれた日本初の本格的な大型器械製糸工場で、約5万5千㎡に及ぶ広大な敷地に残る建造物の多くは草創期の姿をとどめている。東西2棟の繭倉庫は「木骨煉瓦造」という和洋折衷の構造を今に伝え、東繭倉庫通用門のアーチには「明治五年」のキーストーンがある。操業停止時(昭和62年・1987)の自動繰糸機が残る繰糸場には、当初300釜のフランス式繰糸器が設置され、たすきをかけた工女たちが糸を繰り取っていた。世界遺産登録と同年の平成26年(2014)に繰糸場・東繭倉庫・西繭倉庫の3棟が国宝となった。場内ではポータブル音声ガイドや、解説員によるガイドツアーなども行われている。
富岡市内の「龍光寺」「海源寺」にある「富岡製糸場工女の墓」も訪ねたい。また、工女たちが参拝した貫前神社には、絹関係の商売にかかわった人びとが奉納した灯篭(ぐんま絹遺産)がある。
富岡製糸場最寄り駅は上信電鉄の「上州富岡駅」で、上野鉄道の駅として明治28年(1895)に開業した。世界遺産の玄関口として平成26年(2014)に駅舎の建て替えが行われた。地域性を踏まえて一体的にデザインされた駅舎と駅前広場周辺の空間は高く評価され、「グッドデザイン賞」「日本建築学会賞」を受賞している。
藤岡市は古くから生絹の生産が盛んで「日野絹」「藤岡絹」と呼ばれる絹製品で知られた。下仁田道や十石街道などの街道筋に位置し、近世、生絹の集散地としても栄え、絹市が立って賑わった。月に12回も市が立ち、天明元年(1781)には藤岡における生絹の取引量は上州・武州で最大となった。絹市が立った笛木通りと動堂町と呼ばれる地区(古桜町界隈)には古い蔵が点在し、往時をしのばせる。藤岡市高山(旧高山村)には世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産「高山社跡」がある。
高山社は、通風と温度管理を調和させた養蚕法「清温育」を確立させた高山長五郎が明治17年(1884)に設立した養蚕結社および養蚕教育機関で、優秀な卒業生は全国に派遣され、各地で養蚕を指導し大きな成果を上げ、「清温育」を広めた。母屋兼蚕室は明治24年(1891)に建てられ、町中に高山社養蚕学校が建設されると、分教場として使用された。蚕室のほか、桑貯蔵庫・長屋門・焚屋・便所などが残る。蚕室は「清温育」を実践・実習する場として、3つのやぐら・通気口・囲炉裏など、通風や温湿度調節のための設備を整えている。高山社跡は藤岡市の所有で、解説員が常駐し、内部を見学できる。
藤岡市内には、高山社の分教場として活用された「縫島家住宅」「町田菊次郎生家宅」(いずれも個人宅)などの養蚕農家住宅が点在する。また、絹市が立った近くの諏訪神社境内には、高山長五郎と跡を継いだ町田菊次郎を顕彰する碑が並んでいる。
伊勢崎市は蚕糸業で栄え、絹織物の伊勢崎銘仙を生み出した。
伊勢崎市境島村には世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産「田島弥平旧宅」がある。田島弥平旧宅は、通風を生かし、自然に近い状態で蚕を飼育し、「清涼育」を体系的に完成させた田島弥平が、母屋兼蚕室として文久3年(1863)に建てた。「清涼育」の考え方に基づき、瓦屋根に換気設備の「やぐら」を取り付けた近代養蚕農家の原型となった。幅25メートル、奥行き9メートル余りに及ぶ長大な建物で、2階蚕室の窓とともに「やぐら」の「気抜き窓」を開閉し、蚕室内の温度を調整することができた。田島弥平旧宅は個人宅で、敷地内の桑場は公開されているが、母屋の内部は公開されていない。近くに、伊勢崎市による田島弥平旧宅案内所が設置され、模型や資料、解説パネルなどが展示されている。定時の現地ガイドも行われている。
田島弥平旧宅の界隈には「やぐら」のある養蚕農家が点在し、歴史的景観を形成している。境島村となりの長沼町には、養蚕伝習所「親仁館」として活用された養蚕農家「小茂田家住宅」(個人宅・ぐんま絹遺産)がある。
また、田島弥平旧宅近くにある「日本基督教団 島村教会」(国登録有形文化財・ぐんま絹遺産)は、島村の蚕種業者が蚕種輸出を通じてキリスト教に触れたことがきっかけとなり、明治30年(1897)に建てられた。伊勢崎市内の旧境町(境町駅界隈)は、近世以降、生糸売買で栄えた。明治43年(1910)に東武鉄道が開通し、大正8年(1919)境町駅前に繭を保管する「境赤煉瓦倉庫」(ぐんま絹遺産)が建設された。その西側に、機業家・金子仲次郎が昭和初期、輸出向けの伊勢崎銘仙を織る工場を建てた。現在、工場跡が図書館、居宅が「絹の館」として市民に利用されている。
本庄市は近世、中山道最大規模の宿場町として繁栄し、明治以降は生糸・絹織物の産地として栄えた。
八高線児玉駅の近くに、高山社の高山長五郎の実弟・木村九蔵が明治27年(1894)に建てた「競進社模範蚕室」(近代化産業遺産)がある。養蚕結社「競進社」を起こした木村九蔵が提唱した養蚕法「一派温暖育」の伝習施設で、幅20メートル余り、屋根の上に換気用の4つの「やぐら」を備える。
内部は蚕室4室のうち3室を利用して資料を展示し、1室は炭火と換気によって温度・湿度を調節する「一派温暖育」の仕組みが分かるようになっている。定時で解説員が常駐し、説明を受けることができる。
児玉駅の南方、秋平地区東小平(児玉町小平)には「高窓の里」と呼ばれる養蚕農家群がある。屋根の上に換気用の「高窓」を乗せた家々が並ぶ風景は美しく、平成20年度(2008)埼玉県の彩の国景観賞を受賞している。「高窓」は「やぐら」と同じ。地域によって「天窓(テンソー)」や「煙出し(けむだし)」「越屋根(こしやね)」とも呼ばれる。
「高窓の里」近くの金屋地区(児玉町金屋)には、生まれたての蚕を養蚕農家が共同で飼育する「稚蚕飼育所」があり、現役の養蚕施設として稼働している。ほか、本庄市内には、明治29年(1896)に建てられ、生糸や繭の保管に使われた「旧本庄商業銀行レンガ倉庫」(国登録有形文化財)がある。となりの神川町には、富岡製糸場を経営した原合名会社の「原製糸所(原渡瀬製糸所」の繭倉庫・繰糸工場などが日本マイカ製作所構内に残る。
深谷市には、富岡製糸場の設立・運営に携わった渋沢栄一、尾高惇忠に関わる史跡がある。
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は明治28年(1895)建築。屋根の上に田島弥平旧宅と同様の換気用の「やぐら」を備える。奥の間には渋沢栄一が帰郷の際に滞在した部屋(10畳間)が残る。ほか、渋沢関連では、渋沢が頭取を務めた第一国立銀行の有志によって渋沢の喜寿を記念して東京・世田谷に建てられ、深谷に移築復元された「誠之堂」および第2代頭取の佐々木勇之助の古希を記念した建物「清風亭」、渋沢が設立した「日本煉瓦製造株式会社」の「旧煉瓦製造施設」などがある。
尾高惇忠については、江戸時代後期に建てられた生家が残る。農業とともに菜種油の搾油・販売などを行い、「油屋」の屋号で呼ばれた。建物はこの地方の商家建築の形式を示す。屋根の上の「やぐら」は明治以降のものといわれる。この家で尾高は塾を開き、幼い渋沢が歩いて通った。
深谷市は平成25年(2013)富岡市と友好都市提携を交わしている。渋沢と尾高がとりもつ縁といえよう。
熊谷市では、片倉工業最後の製糸工場、熊谷工場が平成6年(1994)まで稼働していた。その繭倉庫を活用し、平成12年(2000)「片倉シルク記念館」(近代化産業遺産)が開設された。館内には、工場で実際に使われた機械や道具が展示され、製糸の工程を学ぶことができる。片倉工業の製糸業120年余りの歴史を保存継承するための施設でもあり、「ミノリカワ・ローシルク」を生み出した御法川式多条繰糸機や、富岡製糸場にあるものと同型の自動繰糸機も常設展示されている。
操業時、片倉工業の富岡工場(富岡製糸場)と熊谷工場は、技術情報を交換し、切磋琢磨しながら生糸の品質を競い合ったという。「上武絹の道」を彩る近代製糸の息吹が記念館の空間に漂う。