上武絹の道

日本と世界への伝播
道の向こうに広がる地平

産業力を軸に「上武絹の道」から広がる国内外への伝播。
技術・経営・生活様式など、その影響は多岐におよぶ。
絹産業の営みは今も、国境を越えて続けられている。

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富岡製糸場の影響力

「上武絹の道」の産業力の影響は、上州・武州にとどまらず、全国的な規模で広がりを見せた。初期においてその主導的役割を担ったのは富岡製糸場だった。
富岡製糸場は模範伝習工場として、全国から工女を募集して器械製糸の技術を習得させ、彼女らが指導者となって各地に新技術を伝播させた。
『富岡製糸場誌』には、富岡製糸場による各地への器械製糸技術の伝播として、長野・兵庫・愛媛・北海道・大分など全国各県における多くの実例が挙げられている。富岡製糸場のようないわゆる「富岡式」といわれる器械製糸は、規模や仕様こそ異なれ、富岡製糸場開業翌年の明治6年(1873)から明治12年(1879)の間に、全国26の製糸場に導入されたといわれる。

「木造」の富岡様式製糸場

器械製糸導入だけでなく、富岡製糸場そのものをモデルとする製糸場も各地につくられた。『富岡日記』の横田(和田)英の郷里、長野県西条村(松代町)の六工社が知られるが、韮山県(現在の静岡県の一部)でも計20余名の子女を富岡製糸場に送って伝習させ、帰郷を契機として「富岡式伊豆地区第1号」といわれる松崎製糸社が設立された。また、石川県の金沢からは大工津田吉之助らが富岡製糸場を視察し、明治7年(1874)金沢製糸場を設立した。石川県の殖産興業の先駆けであった。

国内の製糸場の多くは戦後、操業を停止し、建物もほとんどが解体された。その中で三重県四日市の旧亀山製糸室山工場は、富岡製糸場を模範とした往時の姿をとどめる数少ない遺構とされる。室山工場をつくったのは、明治初期創業の伊藤製糸で、創業者は親族を富岡製糸場に派遣した。室山工場は木造だが富岡製糸場をモデルに造られた。火事で焼失し、明治36年(1903)再建。平成7年(1995)年まで操業を続け、稼働停止後も往時の姿をとどめている。
なお、福井県勝山市でも子女を富岡製糸場に派遣した記録が残る。勝山市では明治時代、生糸生産が盛んに行われた。やがて織物産業にシフトし、名産の「羽二重」を生んだ。羽二重には群馬県桐生市からの技術が導入された。

他の構成資産の影響

富岡製糸場だけではない。通風を重視した田島弥平の「島村式」蚕室は、養蚕農家のモデルとなって各地に波及した。
旧庄内藩の士族が田島弥平のもとに実習生として派遣され、養蚕技術を習得し、田島弥平宅の蚕室と同型の建物を松が岡開墾場(山形県鶴岡市)を建てた。現在も5棟の大規模蚕室が残り、国史跡に指定されている。この蚕室を基盤に明治20年(1887)松岡製糸場が設立され、山形県酒田市の松岡株式会社として現在も機械製糸を行っている。
また、高山社の高山長五郎が確立した養蚕法「清温育」は、生糸の輸出需要増大を背景として、確実で実効性の高い繭生産を目指す養蚕法として広く受け入れられ、日本全国に普及した。

絹の道は海を越えて

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明治初期、横浜から輸出された生糸の多くは、当時ヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市であったフランスのリヨンに送られた。リヨンへの輸出は当初、リヨンの商社として最初に横浜に進出したエシュト・リリアンタール商会を経て行われた。富岡製糸場の指導に当たったポール・ブリュナも、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在の生糸検査人という経歴を経て、明治政府に招かれた。

当時、日本国内の生糸の集散地で、良質な生糸の生産地とみなされた「前橋」の名は、リヨンやロンドンなどで知れわたり、質の高い日本生糸は「マイバシ(MybashまたはMaibashi)」と呼ばれたという。
明治9年(1876)渡米した新井領一郎が日本人として初めて生糸の直輸出を実現。明治17年(1884)以降の輸出先はアメリカへ変わってゆく。富岡製糸場の生糸も三井家時代以降、主要輸出先はアメリカになった。明治43年(1910)米国絹業協会長らが来日し、群馬を訪れている。

「上武絹の道」の足跡は中国にも見られる。ポール・ブリュナは富岡製糸場を辞してフランスに帰国した2年後の明治11年(1878)、アメリカの商社ラッセル商会に招かれ、上海で器械製糸工場の設立に携わった。ブリュナの名を冠した公園が現存する。明治30年(1897)、浙江省・杭州に中国近代史上初の蚕業専門学校「蚕学館」が開校したとき、招聘を受けて、高山社から副校長の前島次郎が派遣されている。

絹文化の裾野をひろげる

「上武絹の道」は、富岡製糸場と連携して、「良質な生糸を量産する」という近代的な養蚕・製糸システムを構築した。そのシステム構築には、養蚕農家などによる努力や工夫があり、養蚕技術の刷新・普及、蚕の優良品種の開発と普及、風穴利用による蚕種冷蔵技術改良などの「技術革新」があった。

この結果、長い間生産量が限られ、貴重品(希少品)とされた生糸は、さらに高品質化され、大量生産されるようになった。
明治42年(1909)に日本の生糸輸出量は世界一となり、日本の良質で安価な生糸は広く国際市場へ届けられ、世界に受け入れられた。それまで特権階級が身にまとう高級繊維だった絹は、良質・安価な生糸の大量供給によって一般の人々に身近なものとなり、絹文化は幅広い階層に普及した。「上武絹の道」は、日本のシルクが世界を席巻する先導役を担い、生活や文化をさらに豊かなものに変えた。

引き継がれる絹産業の営み

生糸生産の技術革新は加速し、戦後、1900年代半ばから自動繰糸機が実用化され、その改良が進んだ。富岡製糸場が昭和49年(1974)に場内史上最高の生産量を達成したのも、最先端の国産自動繰糸機の開発・導入によるものだった。

富岡製糸場は生糸生産のオートメーション化で先導的な役割を果たした。さらに国際化の中で、富岡製糸場で使われた同型の自動繰糸機は、ヨーロッパをはじめ中国やブラジルなど海外の生糸産出国に輸出された。機械の輸出だけでなく、ODA(政府開発援助)による技術協力や技術者の派遣も行われている。「上武絹の道」の「遺産」が国境を越え、世界の絹産業を支えている。

海外だけではない。縮小する国内絹産業のなかで、群馬県は日本一の繭と生糸の産地であり続けている。全国都道府県の中で唯一、試験研究機関(蚕糸技術センター)を擁する県である。官民が協力し、技術開発や応用研究などによって絹産業を守り、生糸の生産のみにこだわらず、蓄積された遺伝子研究の成果を幅広い産業で活用して、未来へつなげようとしている。

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