絶えざる技術革新、それを支えた業際間の取り組み。
養蚕・製糸は、日本が近代化を歩む道筋の先端にあった。
それは時代を超え、現代の先端産業の系譜へと連なる。
「上武絹の道」には「蚕業の技術交流」が存在した。
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の4つの構成資産は、「蚕種の生産(田島弥平旧宅)~蚕種の貯蔵(荒船風穴)~養蚕法の教育(高山社跡)~器械製糸(富岡製糸場)」という絹産業のシステムとして機能していた。4資産あいまって、養蚕・製糸の技術革新が進められた。
技術交流の形跡は、上武の州域を越えて認められる。明治末期、富岡製糸場は明治政府の許可を得て学術研究のため、イタリアやフランスから直輸入した優良蚕種の飼育を、高山社(藤岡)や競進社(児玉)などの蚕業学校を卒業した養蚕農家に委託した。その地域は、地元の富岡や群馬県多野郡・佐波郡のほか、埼玉県児玉郡・大里郡などに及んだ。
大正時代初期、「蚕種統一」を図るため、蚕の優良品種として国の主導で開発され、実用化された「一代交雑種」についても、富岡製糸場(原合名会社時代)は率先して普及に取り組んだ。上州・武州の養蚕農家はその試験飼育や蚕種製造、飼育指導などに協力した。
日本初の大規模な器械製糸を導入した富岡製糸場では、器械(機械)の改良・刷新による技術革新も進んだ。
三井家時代(1893~1902)には、開業当初の繰糸器に代わって新型繰糸機が導入され、アメリカ輸出用の生糸が生産された。
原合名会社時代(1902~1939)には、明治末に御法川直三郎によって発明された「御法川式多条繰糸機」が取り入れられ、生糸の品質と生産性が向上した。御法川式多条繰糸機は従来にない発想、すなわち「蚕が糸を吐くような低速で糸を巻き取れば、繭糸本来の品質が保てるのではないか」という考え方から生まれ、速度を従来の5分の1に落とし、条数(糸を取る数)を5倍の20条に増やした。御法川式多条繰糸機によって製出された生糸は「ミノリカワ・ローシルク」としてストッキングに適し、アメリカで人気を博した。
片倉時代(1939~1987まで操業)になると、自動繰糸機、すなわち繰糸中に糸の太さを感知し、細くなると新しい繭を補充するシステムを組み込んだ繰糸機が昭和20年代後半から段階的に導入された。自動繰糸機の改良は進み、昭和40年~50年代の生産ピーク時には「ニッサンHR型自動繰糸機」が活躍した。今も富岡製糸場の繰糸場に並ぶその姿は、自動繰糸機の最も進化した形を示している。同型の繰糸機が群馬県安中市の碓氷製糸で稼働している。
上武両州でつくられた生糸や蚕種は第一等の輸出品目として、貿易港の横浜に運ばれた。鉄道開通以前は、利根川などによる舟運が使われた。かつて利根川にはいたるところに河岸(港)があり、舟運で栄えた。
鉄道は明治5年(1872)に東京-横浜間が開通していた。路線の延伸を図り、日本初の私鉄「日本鉄道」の第1期線として、高崎線が明治16年(1883)上野-熊谷間で仮営業を開始し、翌年全通した。高崎線開設の目的は、鉄道によって横浜まで生糸・絹織物を運ぶことだった。
明治17年(1884)に高崎線の延長で高崎-前橋間が開通して端緒が開かれた両毛線も、足利・桐生・伊勢崎などで産出される絹織物や両毛地区の生糸を運ぶための路線だった。 時代が下り、昭和9年(1934)に全通した八高線も、高崎から八王子まで生糸・絹織物を運ぶためにつくられた。八王子から横浜までは明治41年(1908)に横浜鉄道(現JR横浜線)が開通していた。
また、富岡製糸場のある西毛地区(群馬県西部)を走る上信電鉄は、明治28年(1895)上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、2年後に高崎-下仁田間が全通した。設立の2年前、明治26年(1893)には富岡製糸場が三井家に払い下げられた。上野鉄道の設立には地元資本に加え三井財閥も関わった。開業当初の上野鉄道はナローゲージ(レール間の幅が狭い仕様)の軽便鉄道として敷設され、小型の蒸気機関車を運行させていたが、大正13年(1924)全線電化に改められた。
群馬県の郷土かるた「上毛かるた」で前橋市は「県都前橋 生糸の市(いとのまち)」とうたわれる。安政6年(1859)横浜開港以降、前橋は大量の生糸が集散する都市として活況を呈した。2年後の文久元年(1861)には、生糸の品質を検査して、粗製濫造による粗悪品を排除する「生糸改所(きいとあらためしょ)」が本町通りに設けられた。明治11年(1878)には洋風建築を取り入れた白亜の建物が建てられた。
また、明治7年(1874)原善三郎(埼玉県神川町出身の生糸売込商)らによって横浜に開設された第二国立銀行は、翌年高崎、翌々年前橋に支店を設けた。第二国立銀行の流れを汲む横浜銀行になってからも支店は続いている。
時代は下って昭和19年(1944)前橋に日本銀行前橋支店が開設された。関東地方における初の日本銀行支店で、前橋が金融の重要拠点であったことを物語る。その背景に「生糸の市」があった。現在も関東地方における日本銀行の支店は、前橋支店と横浜支店(昭和49年開設)しかない。
初期の富岡製糸場は「模範伝習工場」として工女の技術教育と訓育に努めたが、高山長五郎が起こした養蚕結社「高山社」も研究・教育機関の色彩が強かった。長五郎の跡を継いだ町田菊次郎は、明治34年(1901)高山社蚕業学校を設立し、養蚕の指導者を育成した。入学者は中国・台湾・朝鮮半島からも集まり、卒業生には荒船風穴を築いた庭屋千壽(せんじゅ)もいた。
高山社蚕業学校は、その後各地に蚕業関連の各種学校が設立されたことに伴い、昭和2年(1927)閉校。在学生は同年開校の群馬県立蚕糸学校に編入となった。群馬県立蚕糸学校の歴史はのち安中実業高校を経て、平成18年(2006)開校の安中総合学園高校につながる。現在のコースのひとつ「生物資源系列」は、高山社蚕業学校の遺産といえるかもしれない。このことは、高山長五郎の実弟、木村九蔵が起こした養蚕結社「競進社」がのち競進社蚕業学校から児玉農業高校を経て児玉白楊高校になり、生物資源科を残している経緯と照応する。
「明治という時代は糸が軍艦を造った」といわれる。開国間もない明治政府は生糸貿易によって外貨を得て殖産興業と富国強兵の礎を築き、時代の象徴ともいえる日露戦争を経験した。細い生糸の先に、糸偏にとどまらない広がりが現れる。
日本を技術立国へ導いた産業のルーツに「織物」がある。世界を席巻するトヨタも、創業者・豊田佐吉が発明した自動織機から始まっている。「上武絹の道」に位置するサンデンも、前身は織物業を営んでいた。昭和18年(1943)絶縁体のマイカ(雲母)を使用したコンデンサーなどの製造を開始した。このいきさつは、埼玉県神川町にあった「原製糸所」が昭和15年(1940)にマイカを製造する「㈱日本マイカ製作所」に転身した歴史と符合する。
富岡製糸場に今も残る「ニッサンHR型自動繰糸機」は、当時のプリンス自動車工業が開発した。プリンス自動車工業は群馬を発祥とする中島飛行機の流れを汲み、自動車以外に織機の開発、また宇宙関連機器の設計・製造も行っていた。小惑星探査機「はやぶさ」の再突入カプセルシステムを製造したIHIエアロスペースは、日産自動車宇宙航空事業部を前身とし、そのルーツはプリンス自動車工業の宇宙関連機器部門であり、さらにそのロケット技術は、中島飛行機が行っていたロケット研究に端を発する。なお、IHIエアロスペースの生産拠点は富岡にある。
軽工業から重工業・先端産業へと移りゆく産業史の交差点に「上武絹の道」はある。